コラム4 : 【権力とは何か 後編】民主主義を補完する制度とは、何か。それは、まさに以前お話した、立憲主義です。(コラム1と2参照)立憲主義の具体化の方法は国によって様々ですが、たとえば日本国憲法には、以下のような規定があります。第81条(法令等の合憲性審査権)最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。もし、多数決のデメリットを知らなければ、この規定は意味不明なものに見えるかもしれません。なぜなら、選挙(=多数決)で選ばれてもいない一部の人間(=最高裁判所の裁判官)が、多数決によって決められたもの(法律)や、多数決で選ばれた人が決めたこと(命令等)を、『憲法』というものさしによって否定することができる、と定めているわけですから。ここ、大事なのでもう一度言います。上記の規定は、多数決の結果を、裁判官が憲法の名の下に否定してもいい、ということを定めています。これってなかなかすごいことだと思いませんか?だって、裁判官ってどこのどいつだ、憲法ってものさしってなんだ、って話ですから。ただ、もしかしたら、目的と手段を分けて考えられる方、あるいは、多数決は万能だと思っていない方は、直感的に理解できるかもしれません。この規定が決して、民主主義には反しておらず、むしろ、民主主義のデメリットを補正するものであることを。この点についてはひとまず、一つのことだけ、触れておきたいと思います。『憲法』が守ろうとしているものは何か、という点です。それが端的に示されている日本国憲法の規定が、以下の規定です。第13条前段(個人の尊重)すべて国民は、個人として尊重される。この規定、ともすると、個人主義や権利主張志向の行き過ぎの根源として槍玉に挙げられますが、それは全く的外れな批判です。語られるべき文脈が違いすぎます。この規定は常に、多数決のデメリットを補正する文脈で機能します。最高裁判所は、少数者の権利や利益が制約されていて、かつその状態が、多数決に委ねていてはいつまで経っても状況が改善されない場合、この規定やこの規定に基礎を置く規定に従って、多数決の結論を否定します。つまり、憲法は常に、多数決の結論と対峙し、個を守り、これが結果的に、民主主義のデメリット(少数派の弾圧)を補正するわけです。ちなみに、そもそもここ日本で、個人主義や権利主張志向が行き過ぎているとは思いませんが、仮にそれらによる弊害があるのだとしても、権力を制限する憲法とは無関係です。コラム1と2で述べたとおり、私たちの生活を律しているのは、憲法ではなく、法律と私たち自身の意思です。、、とまあ、ここまで長々と話してきてしまいましたが、ここへきてようやく、本題に入ります。権力とは何か。それをお話するための前提として、これまで、多数決について話してきました。この多数決と権力は、ある一点で共通しています。それは両方とも、個人の意思を制限する、という点です。ピンとくる人こない人、いると思います。特に、権力って、イメージしづらいですよね。では、こう言い換えてみるとどうでしょう?権力とは、会ったこともない、人柄も能力もよくは知らない見ず知らずの人の言うことを聞かなくてはいけないという仕組みが生み出す力、のことです。(ちなみに、この定義は、私の勝手な定義です)そしてこの力は、民主主義社会においては、多数決という過程を経て、生まれてきます。少し(かなり?)話は逸れますが、権力ということについて考えるとき、私はいつも、『勧進帳』という歌舞伎の演目を思い浮かべます。勧進帳は、簡単に言えば、指名手配になった源義経一行の一員である弁慶と、安宅の関という関所の関守の冨樫の問答劇ですが、この話の中で冨樫が晒されているのが『権力』だよなあと、私は昔から思っていました。そう、義経ではなく、です。冨樫は、源氏の棟梁である源頼朝の命令に従い、山伏に身をやつした弁慶を詰問します。詰問を始める時点ではまだ、冨樫は仕事をこなしているだけで、権力云々という話ではありませんし、義経の側も指名手配犯として逃げているわけですから、いわばこの段階で両者を律しているのは、法(ルール)です。しかし、冨樫は途中で気がつきます。目の前の山伏たちが義経一行であることに。ここから先の冨樫の行動、つまり、彼が、山伏連中が義経一行だと知りつつ関所を通したことは、お芝居としては『仁義』という言葉で称えられるわけですが、本来はそんなに単純な話ではないはずです。なぜなら、義経一行を通してしまった冨樫には、社会的な死(場合によっては肉体的な死)が待っているから。冨樫は、山伏たちの正体に気づいてしまった時点で、選択を迫られたわけです。会ったこともない見ず知らずの頼朝の命令、つまり権力に従うか、それとも、目の前の義経や弁慶に心動かされた自分の心に従うか。冨樫が前者を選んでしまったら物語として成立しないだろう、と言われてしまえばそれまでですが、そうは言っても、冨樫が前者を選ぶことだって十分に劇的ですし、観る者はおそらくそこからも何かを感じるわけです。むしろ、こっちのストーリーの方が『権力』というものの無慈悲さや不条理さを感じる、という感想もあり得るところでしょう。でもやっぱり、私は、義経一行を通してしまった冨樫のその先を思うとき、権力の不条理さを思うのです。権力は、時として、肉体的な死や精神的な死、あるいは社会的な死をちらつかせて、選択を一個人に迫ります。本来は何にも縛られないはずの個人に、行くも帰るも本心ではないという状況で、『さあ、選べ』と迫る、それが権力です。肉体的な死は、日本ではわかりにくいかもしれませんが、そんな状態は、ほんの小さな歯車が狂うだけで、私たちの身にも起き得ます。権力の持つこの不条理さ、どこかで聞いた話だと思いませんか?そう、前提条件①②を欠く多数決と同じですよね。多数決も権力も、個人の意思とは無関係に個人を動かすシステムであるという点では同じなのです。このような状態は、ある意味で、集団を動かす上でのやむを得ないデメリットであると言うこともできるでしょう。でも、だからこそ、集団を動かす側の人間は、そのデメリットに自覚的である必要があるのです。でもなかなか、これが難しい。自分で自分を律するというのは。そこで先人たちは、権力を使う機関と権力を制約する機関を分け、さらに後者の機関には、憲法というものさしを使うことを課しました。これがいわゆる権力分立であり、立憲主義というシステムです。さて、ここまで長々とお付き合いいただきましたが、まとめてみます。多数決も権力も、それそのものでは、少数派の意思を制約するだけの根拠を持ち合わせていません。正しい、とはいえないのです。デメリットを補正するシステムが、正しく機能し続けていること。それだけが、多数決や権力の、正当性の根拠です。この結論を踏まえ、世界や日本、過去や現在を見渡したとき、皆さんの目には、何が映るでしょうか?何を感じるでしょうか?権力とは何か。今回はこれにて。2015.07.22 03:37
コラム3 :【権力とは何か 前編】こう書くとやっぱり、イカツい感じがしますね。そこで、いきなり権力の話をする前に、前編ではまず、多数決について。『権力』に比べて『多数決』って、穏便な感じがしますよね。民主主義、というか、まあそれで決まったならしょうがないよね、的な。でも、多数決って、大事なことを決める方法として適切なのでしょうか?多数決で決めさえすれば、民主主義を実現しているといえるのでしょうか?答え多数決によって決められた結論が適切といえるためには、簡単に言えば2つ、満たしておくべき前提条件があります。逆にいえば、それら条件を満たしていない多数決は、ただの儀式です(アリバイ作り、とも言えます)。そして、多数決は民主主義という『目的』を実現するための一つの『手段』に過ぎませんので、多数決がイコール民主主義というわけではありません。以上の話をもう少し、噛み砕いてみます。多数決で決められた結論に異議を唱えると、『あなたは民主主義を否定するんですか?』って言う人、あなたの周囲にいませんか?、、、まあ、普通はいないでしょうか(笑)。たまに見ます、の方が正確かもしれません。こういうことを言う人、つまり、『目的』(民主主義)の正当性を振りかざすことで、『手段』(多数決)の正当性も主張した気になっている人たちというのは、メディアの中には度々登場しますが、普通に生活している分には、なかなかお目にかかることはありません。少なくとも、私の周囲にはそんな人たちはいません。でもそれは、当然といえば、当然です。対話をして、相手を少しでも納得させないと何も前に進まないのが社会一般ですし、仮に、目的の正当性だけを振りかざして議論を無理やり終わらせたとしても、それってその場限りで、解決されなかった問題はいつかは表出します。何が言いたいことかというと、多数決という手段は万能などではないということ、そして、社会の中で、自分自身から生まれてくる言動(=権力とは真逆の、個の力)を糧に生きている人たちは皆、何となく、あるいは経験として、多数決が万能ではないことを理解しているということです。多数決は、51対49であってもそこで下された結論に構成員の全員が従わなければなりませんし、結局は数で押すわけですから、少数派の立場を否定するだけの理論的な根拠も、提示することができません。つまり、多数決という手段だけでは、民主主義が掲げる『正しさ』は担保できないわけです。(ちなみに、ここにいう『正しさ』とは、個に優劣はつけられないという価値観のことを意味します。)でも、かといって、人が人でしかない限り、集団の重要事項を決める上では、多数決以上に効率的で一応は確からしい手段というのも、なかなかなさそうです。(いつの間にか所属させられていた社会や国家という集団だけでなく、出入りに自己決定が介在する株式会社も、意思決定機関は取締役会や株主総会であり、そこで用いられるのは多数決原理です。)では、嫌々ながらも、多数決を使うしかないのでしょうか。もちろん、そうではありません。答えはシンプルです。多数決のデメリットを補正し、多数決のデメリットを補完する別の手段を組み合わせた上で、多数決を使えばいいのです。まず、デメリットの補正の方法ですが、具体的には、① 議論に必要な正確な情報が全て開示された状態で、できる限り議論を尽くすこと(=情報公開と審議機会の確保)② 多数派と少数派の顔ぶれが固定化しないようにすること(=多様性反映の可能性の確保)という2つの条件が満たされる必要があります。(そしてこの2つが、冒頭に述べた前提条件の2つになります。)①は比較的わかりやすいと思いますが、②は少し説明が必要かもしれません。たとえば、多数決の度に自分が少数派になることが予め決まっていたら、多数決に参加しようと思いますか?思いませんよね。そうしてその人が多数決への参加を諦めたとき、その人の意見は結論に反映されなくなります。要するに、今日負けても明日勝つ可能性があれば、また頑張ろうと思えますが、負けが決まっている勝負が勝手に開催され、結論だけ押し付けられ続けるいうのは、見返りのない八百長をやらされ続けるようなものです。ましてや、①まで満たされていない状態で、多数派から、『多数決で決めたんだからつべこべ言うな』と言われたら、言われた側(少数派)はどう思うでしょう?あまりに理不尽ですよね?だって自分達には、多数派になるチャンス(=多数派を説得するチャンス)すら、与えられていないわけですから。つまり、①と②の両方が満たされていない場合、少数派にとっては、多数決という結論に従わないという選択肢が出てきてしまいます。多数決に従わないということがどういう意味か、勘の良い方ならお気づきかもしれません。でも、多数決に従わないこともやむを得ないような状況だからといって、多数決の外側で自分たちの利を無理矢理通そうとすることを、民主主義では認めるわけにはいきません。なぜなら、そうやって多数派と少数派がひっくり返されても、その過程で『個(=命)』が虐げられ、更なる悲劇の少数派が生まれるだけだからです。そこで、民主主義を採用する国では、とある制度を、いわば多数決を補完する制度として、備えています。もちろん、この日本も。さて、その制度とは、一体何でしょうか?答えは後編で。2015.07.22 03:35
コラム2:【憲法と法律は同じもの?違うもの? 後編】「私たちの生活に支障が生じているから、憲法を改正する必要がある。」この発言って、聞き流しても大丈夫?答え大丈夫か大丈夫じゃないかは、もちろん聞いている側の立場や状況に左右されますが、このような発言をする人の言葉には、よくよく注意して耳を傾ける必要があります。なぜかというと、発言者の意図・背景が、以下①から③のいずれなのかが、その発言を聞いただけではわからないからです。① 自分たちの作りたい法律を成立させるためには憲法改正が必要② 現場レベルの実質的な調査検討をしないままに法律や行政の不備を憲法のせいにしている③ 憲法について何も知らないここで【憲法と法律は同じもの?違うもの? 前編】を少し振り返ると、少なくとも私たちに何らかのルールを強いるのであれば、それは、憲法に沿った法律とその運用(=行政)の中で対処されるべきである、というのが、立憲主義を採用した憲法の考え方でした。であれば、憲法改正が必要となる場面というのは基本的に、『民衆』が『国』に対して要求したいことがあるのに法律にその規定がなく、憲法も無言で、国の政策を待っていてもその要求が実現しない場合や、統治機構(国や地方自治体の機関に関する仕組み)に不備があるといった場合です。たとえば、日本国憲法でいえば、環境権や同性婚、憲法訴訟や地方分権に関する規定などがこれに該当するでしょう。つまり、「私たちの生活に支障が生じているから、憲法を改正する必要がある。」という発言には、「~から」の部分に、論理的に大きな飛躍があるわけです。もし、上記のような発言によって憲法改正を訴えるのであれば、現憲法下では実現できない事態が生じていることを理由とあわせて説明し、かつ、その「実現できないこと」を実現させてよいかどうかという価値判断を『民衆』に問う必要があります。以上、前編と後編を多少補足を加えつつまとめると、以下のようになります。結論:憲法と法律は別のもの(=私たちは法律に従うから、国は憲法に従ってください)結論からの帰結:私たちの生活に足りないものは私たち自身で、あるいは法律と行政(=政策)で解決するというのが基本。(= 憲法改正しなければ実現できない事柄があるのであれば、その前提としてまず、それがあえて国がやるべき事柄かどうか、法律と行政で実現できない事柄かどうかを議論しましょう。そして、憲法改正を実施するのであれば、その中身について、現在の『民衆』である私たちが、過去の『民衆』から未来の『民衆』へと続くバトン(信託)を落とさない内容になっているどうかを議論しましょう。)なお、ここにいう、「過去の『民衆』から未来の『民衆』へと続くバトン(信託)」という表現については、日本国憲法に以下のような条文があります。第97条(基本的人権の本質)この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。ちなみに、『民衆』が『国』に対して要求したいことがあるのに法律にその規定がない場合、現代のICTをもってすれば、憲法改正よりも、『民衆』が立法作業の一部を担うようなシステム(=直接民主制に近いもの)を構築のうえ利用する方が、当然、効率的で安定的でしょう。しかし、そのようなシステムあるいはツールの整備は、諸外国では進みつつあるようですが、少なくとも日本では不十分と言えるのだろうと思います。2015.07.22 03:34
コラム1:【憲法と法律は同じもの?違うもの? 前編】【憲法と法律は同じもの?違うもの? 前編】憲法と法律は同じものでしょうか?それとも、違うものでしょうか?答え両者は、違うものです。何が違うかというと、向いている方向が違う。私が憲法の講義でこの話をするときは必ず、以下に添付したような図を書いて説明するようにしています。人類が数々の悲劇から獲得した立憲主義というシステムは、大胆に簡略化すれば以下の図のようなシステムのことを言います。この図では、たとえば、法律にも民衆の意思が間接的に反映されることや、憲法と民衆が真にイコールといえるのか否かという問題意識などは表現されていませんが、ここであえて、簡略化した図で説明しようと試みているのは、憲法と法律がそれぞれ、向いている方向が違うという点です。憲法の矢印は国に向かっていて、法律の矢印は民衆に向かっています。つまり、法律というルールは『国』から『民衆』に、(民衆は憲法とイコールですので)憲法というルールは『民衆』から『国』に向いている、というわけです。これは、日本国憲法を含む、立憲主義を採用する憲法一般にあてはまる話ですが、たとえば日本国憲法には、次のような条文があります。第99条(憲法尊重擁護の義務) 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。ここに、「国民」の文言はありません。つまり、日本国憲法は、民衆である私たちが従うべきルールではなく、国会議員ほか、国家権力あるいは統治機構とイコールの立場にいる人間が、その立場に基づいて行動するときに従うべきルールなわけです。(なお、日本国憲法には、納税の義務や教育の義務など、国民の義務を定めた規定がありますが、私たちがそれらの義務に反しても、「憲法違反」を問われることはありません。あくまで、憲法を具体化した下位法規の違反の有無が問題になるだけです。)実際に、日本国憲法がこれまでどのように機能してきたかについては、今後にまわして、ひとまず次回は、以上の話を憲法改正の議論にあてはめてみたいと思います。2015.07.22 03:32