コラム3 :【権力とは何か 前編】
こう書くとやっぱり、イカツい感じがしますね。
そこで、いきなり権力の話をする前に、前編ではまず、多数決について。
『権力』に比べて『多数決』って、穏便な感じがしますよね。
民主主義、というか、まあそれで決まったならしょうがないよね、的な。
でも、多数決って、大事なことを決める方法として適切なのでしょうか?
多数決で決めさえすれば、民主主義を実現しているといえるのでしょうか?
答え
多数決によって決められた結論が適切といえるためには、簡単に言えば2つ、満たしておくべき前提条件があります。逆にいえば、それら条件を満たしていない多数決は、ただの儀式です(アリバイ作り、とも言えます)。
そして、多数決は民主主義という『目的』を実現するための一つの『手段』に過ぎませんので、多数決がイコール民主主義というわけではありません。
以上の話をもう少し、噛み砕いてみます。
多数決で決められた結論に異議を唱えると、
『あなたは民主主義を否定するんですか?』って言う人、あなたの周囲にいませんか?
、、、まあ、普通はいないでしょうか(笑)。
たまに見ます、の方が正確かもしれません。
こういうことを言う人、つまり、
『目的』(民主主義)の正当性を振りかざすことで、『手段』(多数決)の正当性も主張した気になっている人たちというのは、
メディアの中には度々登場しますが、
普通に生活している分には、なかなかお目にかかることはありません。
少なくとも、私の周囲にはそんな人たちはいません。
でもそれは、当然といえば、当然です。
対話をして、相手を少しでも納得させないと何も前に進まないのが社会一般ですし、仮に、目的の正当性だけを振りかざして議論を無理やり終わらせたとしても、それってその場限りで、解決されなかった問題はいつかは表出します。
何が言いたいことかというと、多数決という手段は万能などではないということ、そして、社会の中で、自分自身から生まれてくる言動(=権力とは真逆の、個の力)を糧に生きている人たちは皆、何となく、あるいは経験として、多数決が万能ではないことを理解しているということです。
多数決は、51対49であってもそこで下された結論に構成員の全員が従わなければなりませんし、結局は数で押すわけですから、少数派の立場を否定するだけの理論的な根拠も、提示することができません。
つまり、多数決という手段だけでは、民主主義が掲げる『正しさ』は担保できないわけです。
(ちなみに、ここにいう『正しさ』とは、個に優劣はつけられないという価値観のことを意味します。)
でも、かといって、人が人でしかない限り、集団の重要事項を決める上では、多数決以上に効率的で一応は確からしい手段というのも、なかなかなさそうです。
(いつの間にか所属させられていた社会や国家という集団だけでなく、出入りに自己決定が介在する株式会社も、意思決定機関は取締役会や株主総会であり、そこで用いられるのは多数決原理です。)
では、嫌々ながらも、多数決を使うしかないのでしょうか。
もちろん、そうではありません。
答えはシンプルです。
多数決のデメリットを補正し、
多数決のデメリットを補完する別の手段を組み合わせた上で、多数決を使えばいいのです。
まず、デメリットの補正の方法ですが、具体的には、
① 議論に必要な正確な情報が全て開示された状態で、できる限り議論を尽くすこと(=情報公開と審議機会の確保)
② 多数派と少数派の顔ぶれが固定化しないようにすること(=多様性反映の可能性の確保)
という2つの条件が満たされる必要があります。
(そしてこの2つが、冒頭に述べた前提条件の2つになります。)
①は比較的わかりやすいと思いますが、②は少し説明が必要かもしれません。
たとえば、多数決の度に自分が少数派になることが予め決まっていたら、
多数決に参加しようと思いますか?
思いませんよね。
そうしてその人が多数決への参加を諦めたとき、その人の意見は結論に反映されなくなります。
要するに、今日負けても明日勝つ可能性があれば、
また頑張ろうと思えますが、負けが決まっている勝負が勝手に開催され、結論だけ押し付けられ続けるいうのは、見返りのない八百長をやらされ続けるようなものです。
ましてや、①まで満たされていない状態で、多数派から、『多数決で決めたんだからつべこべ言うな』と言われたら、言われた側(少数派)はどう思うでしょう?
あまりに理不尽ですよね?
だって自分達には、多数派になるチャンス(=多数派を説得するチャンス)すら、与えられていないわけですから。
つまり、①と②の両方が満たされていない場合、少数派にとっては、多数決という結論に従わないという選択肢が出てきてしまいます。
多数決に従わないということがどういう意味か、勘の良い方ならお気づきかもしれません。
でも、多数決に従わないこともやむを得ないような状況だからといって、多数決の外側で自分たちの利を無理矢理通そうとすることを、民主主義では認めるわけにはいきません。
なぜなら、そうやって多数派と少数派がひっくり返されても、その過程で『個(=命)』が虐げられ、更なる悲劇の少数派が生まれるだけだからです。
そこで、民主主義を採用する国では、とある制度を、いわば多数決を補完する制度として、備えています。
もちろん、この日本も。
さて、その制度とは、一体何でしょうか?
答えは後編で。
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